縮景園の歴史縮景園の紹介

 縮景園(しゅっけいえん)は,江戸時代初頭の1620年(元和6年)から,広島浅野藩初代藩主 浅野長晟(ながあきら)が別邸の庭園として築成した大名庭園で,作庭者は茶人としても知られる家老の上田宗箇(そうこ)です。
 古くは,「お泉水(せんすい)」又は「泉邸(せんてい)」と呼ばれていましたが,儒学者の林 羅山(らざん)が2代藩主光晟(みつあきら)の求めに応じて作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から「縮景園」の名称が付いたと言われています。
 その後,1758年(宝暦8年)の宝暦の大火による,園内の多くの建物の焼失や1783年(天明3年)からの天明の大改修を経て,1940年(昭和15年),浅野家から広島県に寄贈され,同年,名勝の指定を受けています。
 そのわずか5年後の1945年(昭和20年),広島に投下された原子爆弾により壊滅的な状態になりましたが,1949年(昭和24年)から始まった復旧は約30年をかけて完成し,現在に至っています。


縮景園の紹介縮景園の歴史

 縮景園(しゅっけいえん)は,江戸時代初頭の1620年(元和6年)から,広島浅野藩初代藩主 浅野長晟(ながあきら)が別邸の庭園として築成した大名庭園で,作庭者は茶人としても知られる家老の上田宗箇(そうこ)です。
 古くは,「お泉水(せんすい)」又は「泉邸(せんてい)」と呼ばれていましたが,儒学者の林 羅山(らざん)が2代藩主光晟(みつあきら)の求めに応じて作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から「縮景園」の名称が付いたと言われています。
 その後,1758年(宝暦8年)の宝暦の大火による,園内の多くの建物の焼失や1783年(天明3年)からの天明の大改修を経て,1940年(昭和15年),浅野家から広島県に寄贈され,同年,名勝の指定を受けています。
 そのわずか5年後の1945年(昭和20年),広島に投下された原子爆弾により壊滅的な状態になりましたが,1949年(昭和24年)から始まった復旧は約30年をかけて完成し,現在に至っています。

〈 縮景園のあゆみ 〉

元和5年(1619)
浅野長晟,広島城に入城
元和6年(1620)
泉水屋敷(後の縮景園)の築成に着手
正徳3年(1713)
浅野吉長,園内に稲荷神社を祀る
吉長,寄福山など17か所の名称をつける
堀南湖「縮景園記」を記す
宝暦8年(1758)
広島で大火災(宝暦の大火)が発生し,園内の建物,樹木の多くが焼失
宝暦10年(1760)
浅野重晟,園の復旧に努める
天明3年(1783)
京都の庭師・清水七郎右衛門による大改修始まる
文化元年(1804)
重晟,園内名勝34景の名称を頼春水らに付けさせる
文化4年(1807)
牛田清水谷から導水装置をつくる。
明治27年(1894)
大本営副営指定。明治天皇来園。
大正2年(1913)
園内に観古館設置
昭和15年(1940)
広島県,浅野家から縮景園及び観古館の寄付を受納・名勝の指定
昭和20年(1945)
原子爆弾によりほぼ全壊し,園の内外で多くの人命が失われる。
昭和24年(1949)
園の復旧を開始
昭和61年(1986)
縮景園八勝のうち,長堤桃花を復元
令和2年(2020)
築庭400年を迎える